足尾銅山の世界遺産登録を推進する会
この会は、平成6年度足尾町に賦存する豊かな自然や産業遺産をネットワーク化することで全町を博物館化する構想が発端となり、エコミュージアムあしおの創造、足尾町振興計画、産業遺産を活用した観光振興策定、エコミュージアムあしおの創造~環境の街づくり事業と発展し、平成18年からはさらに発展して足尾銅山の世界遺産登録に向けての活動をしております。
足尾山塊は、秩父古生層の次の古代ジュラ紀より存在する日光山一帯の地層とともに金銀銅の山として、古代より隠密の世界に存在し、戦国時代は栃木県南部の唐沢山城を治めた藤原秀郷の子孫佐野氏の統括を受け、1610年より約250年の徳川政権を支え、明治以降は古河市兵衛によってその私財を受け、また国策としての富国強兵、殖産産業を支えてまいりました。そのため、日本の最初の公害の原点である汚名を受け続けてまいりましたが、住民を巻き込んだ5回の鉱毒予防工事を実施。当時、日本で初めて、日本で最大等々その時最大の技術の導入、開発、植林等々・・・可能な限りのことに挑戦してきたことも事実であります。
渡良瀬川の源流である足尾町は、銅山の支柱を建てるために山の木が伐採され、大火事の追い打ちも受け、まず松木村が明治35年に廃村に追い込まれました。台風の通過が多いこともあり下流への被害は甚大になりました。元々暴れ川である利根川水系の渡良瀬川は、下流域へ大きな被害をもたらしたのです。そして谷中村が廃村に追い込まれます。そこで田中正造翁により足尾銅山の鉱害が公になり天皇直訴が行われます。翁は、国会議員時代に鉱毒予防工事後の視察に来ております。翁は足尾銅山を責めることは一度もありませんでした。国の対応を責めたのです。
当会は、足尾銅山の光と影の事実を真摯に受け止め、ありのままに後世に伝えていくことが足尾に生きる者としての使命であると認識し、足尾銅山を広く知っていただくための活動をしています。