産業遺産の見どころ

鶴屋&泉屋TURUYA THE HOTEL OF FOREIGNERS STAYED&IZUMIYA COOKING HOTEL

 

TURUYA WAS THE LATE OF EDO PERIOD~1934.8 & IZUMIYA WAS 1889~2005

鶴屋は鍋島藩士鶴島家の鶴島チカが、幕末に経営を始めました。長女カネが二代目女将、婿の清四郎は郡会議員、孫の茂は古河鉱業の技師。次女の徳子は今市の現たまり漬け上澤味噌醸造元上澤慎一郎へ嫁ぎ、上澤家は、明治22年本山鉱山神社建立の際に水鉢を奉納しています。1872(明治5)年に工部省お雇いゴットフリー、1873(明治6)年に政府法律顧問ブスケ、1880(明治13)年、1873(明治17)年に英国外交官アーネスト・サトウが宿泊しています。鶴屋も泉屋も外国人用の離れがあったそうです。鶴屋は昭和9年8月に周辺一帯と共に蔵だけ残して焼失してしまい、以降は泉屋が大きな役割を果たしてきました。泉屋は明治22年の創業で、本山賄の神山兼吉が立ち上げましたが、本人のやる気が削がれ段々古河の信用を無くしていったようです。のちに泉屋も関塚一族の長男暢一郎に引き継がれていきました。泉屋は、江戸時代の足尾陣屋敷地内跡に建てられたようです。

誠之館SESHIKAN TEATER1929~1959

昭和30年の中才は、浄水関係者の社宅が184戸、900人、町部61戸、262人を数えていました。誠至館は、中才の西端の中才浄水中間付近に足尾銅山の劇場兼大集会施設として昭和4年に建設されました。全山の友子取立式、鉱夫組合や精神団体連合会、後の鉱業報告会の会合を始め、銅山主催の大相撲、芝居の公演や映画会などに広く使用されました。芝居では歌舞伎や新派の立役も来演しています。戦後は、1945(昭和20)年12月には、足尾銅山労働組合同盟会の結成大会に使用され、以後も年次組合大会の会場になりました。昭和30年以降に坑内に社外組夫を導入しましたが、その宿舎に転用され飛島建設の下請けが入居していました。昭和34年失火のため全焼してしまいました。足尾は、不思議と劇場という劇場が次々と焼失しています。

C12重連 12 OUBLE HEADING1969

通洞鉱山社宅TUDO MINER'S COTTAGE1955

通洞鉱山住宅地域は、新梨子地区の一部で近代足尾銅山の発展で造成された鉱業集落です。大正から閉山までの足尾銅山では最大の集落でした。通洞とは、鉱山用語で鉱山の主要な運搬兼排水坑道を意味します。足尾銅山庶務を長らくされた村上安正氏によれば、日本の近代鉱山では、鉱山の進展によって通洞開鑿が行われましたが、90年に渡って一つの通洞を使用した例はないそうです。通洞の集落は、1885(明治18)年9月の起工とともに形成され、明治20年ごろは40~50戸に過ぎませんでしたが、21年の通洞選鉱場建設、22年、27年の拡張工事、30年の鉱毒予防工事に伴う簀子橋選鉱場との合併、通洞地並以下の下部開発のための立坑の開鑿等人口が増加していきました。

足尾銅山通洞医局ASHIO COPPER MINE TUDO PRIVATE HOSPITAL BY FURUKAWA CO.LTD1910~1967

通洞医局は、1896(明治29)年に本山医局の分院として洋風木造建築で建てられ、以後建物の増築と設備を拡充して来ましたが、明治41年には足尾暴動のために本山医局に代わって本院となりました。大正11年には、別館が新築され足尾銅山付属病院の中核となりました。当時、医師8名、歯科医師2名、産婆さん2名などを擁し、内科、外科、眼科、耳鼻科、産婦人科、歯科の総合病院で37名を収容する病室をもっていました。治療の水準は、栃木県内では明治中期から戦前まで最高の域にありました。1930(昭和5)年には珪肺のレントゲン検査が開始されましたが、それ以前から医師による研究が進められたこともあって、この年に施行された鉱夫珪肺扶助の第1号が認定されました。戦後も足尾銅山を核にして医療と地域医療に貢献しましたが、他地域との格差が広がり、医師の確保が困難になっていきました。特に閉山後は従業員の急減などから維持が困難になり廃止されました。

1 2 3