産業遺産の見どころ

全山運動会 柏木平運動場1925・選鉱グラウンド1926~1932・柏木平運動場1933~1942 ALL ASHIODOZAN FESTIVAL 1925~1942

全山運動会 柏木平運動場1925・選鉱グラウンド1926~1932・柏木平運動場1933~1942 ALL ASHIODOZAN FESTIVAL 1925~1942

山で働く人々の暮らしを守るために、大正8年と10年に大規模な労働争議が足尾で起こりました。大正13年に足尾銅山体育会が発足し、人々のエネルギーは全山運動会で発揮されることになりました。最初、柏木平で開かれ、通洞の選鉱グラウンドで開催されましたが手狭で困ったようで、1932昭和7年に柏木平に1周200メートルのグラウンドを完成させ翌年から大規模な運動会が開催されました。

全山とは、坑口がある本山坑・小滝坑・通洞坑を合わせた総称です。応援歌は東京六大学応援歌のメロディに別の歌詞をつけましたが、当時はそれが主流だったようで各地で応援歌や効果に転用されたそうです。青軍の応援歌は正に早稲田大学、他にも慶応、明治と全部で8軍あったそうです。オリジナルも当然あって、小滝の応援歌は労働運動家の生田龍作作詞、佐野金太郎作曲の素敵な曲です。

足尾銅山労働組合 OLD THE LABOR UNION OFFICE OF ASHIO COPPER MAIN 1972

足尾銅山労働組合.jpg

明治期の労働組合は、大日本労働至誠会事務所と言い、その巨頭は南助松と永岡鶴蔵です。永岡は、夕張から東京を経由して足尾がに入り、坑夫の自立と独立を求める運動を展開、坑夫をやめ赤沢の前原で雑貨商を営みながら組織化を進めていきましたが妨害が多く衰退しました。それを打開するため夕張時代の盟友・南が明治9年10月に足尾に着いて戦闘的な方針を出して活発な活動を展開しました。

明治40年2月4日通洞で暴動が起き本山へも波及しました。見張りの破壊、採鉱役員に対する暴行は、役員が坑夫からの賄賂に応じて間代や切羽を変え、結果的に賃金支払いを左右していた事実を不公平だと感じていたことを示すものです。

さらに、当時の鉱業所長が鉱毒防除工事の官僚のひとり南禎三で、これまで多少のサボりも見逃し給料も減額無しであったスタンスを変え、厳格な処罰の上、給料カット方式を採用し、自分では私腹を肥やしていったことへの反感でしたので狙われ、乱打されましたが殺すな、病院に連れていけとの声がかかり病院に担ぎ込まれたとありますが2週間で仕事に復帰しているそうです。通洞駅前の置屋に逃げ込み一命を取り留めたと云われていますがここで養生していたのではないでしょうか。おそらく日本最初の天下りではないでしょうか?

永岡と南は、坑夫の暴挙を抑えて地道な組織活動を行うように説得しましたが、警察がこれまでの態度を変えて患部を一斉に検挙し直ぐに宇都宮へ護送したため統制を失い、本山事務所の焼き討ちへと発展しました。この騒動は手の付けられない騒ぎに発展し軍隊の出動が要請され、高崎から三個中隊約300名の軍隊が足尾に着きました。裁判の結果、永岡と南ら幹部の大多数は無罪となりました。

時を経て、戦後の労働組合は、昭和20年12月に約3500人の組合員を集めて結成されました。職場別に10組合の連合体です。初代会長に、生田龍作で小滝の飯場頭二代目でしたが、明治・大正・昭和初期までの労働組合の伝統を受け継ぎ戦後の民主化のために先頭に立って活躍しました。全日本金属鉱山労働組合連合会や栃木県労働組合会議の結成を主導しいずれも初代委員長を歴任しました。敗戦直後の食糧危機には町ぐるみの生き残り運動・鉱山の職業病である珪肺の絶滅を国家補償を求める決議を行い、昭和30年に珪肺特別法の成立に終始尽力した蘇原松次郎氏など戦後史に残る人物を輩出しました。

組合は、昭和48年2月の閉山に伴い解体され足尾銅山生活協同組合通洞売店が移転されましたが、それも閉店しました。

 

ガソリンカー軌道跡 OLD TRACK MARK OF GASOLINE CAR 1926~1954

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足尾の運搬技術は、その時代の最先端を先導する形で取り入れられてきました。

1649年から江戸時代の銅の運搬は、足尾から群馬県の峠道を越えて、渡良瀬川沿いに銅街道(あかがねかいどう)を馬に背負わせて途中途中の銅蔵にて休み休み利根川岸まで運び、江戸まで運んでいました。宿は沢入・花輪・桐原・大原本町・亀岡。

明治10年に古河市兵衛が足尾銅山を手に入れると、渡良瀬の停車場を基点に馬車鉄道が敷かれ、また索道を通して日光側へ下ろしまた馬車鉄道で日光駅へ運び鉄道で東京へと運ばれました。まちなかのインフラは右往左往に馬車鉄道が敷かれ、大正時代に入ると馬車からガソリンカーへ変わりました。当時は、横浜港にアメリカからフォード車が次々と輸入された時代・・・これに目を付けた古河三代目虎之助は、フォードのエンジンを搭載したガソリンカーを13台造らせ、また資材運搬用として一回り大きな21・22号を造らせました。

ガソリンカーは、大正15年から昭和29年3月までの30年間足尾の足となって活躍しました。銅山の街足尾町の主要道路にはトロッコ用資材なども運搬していましたが、鉱石は別ルートで運ばれていたので、この町中にあった軌道に鉱石運搬列車は走っていませんでした。やがてトラック輸送に置き換えられ、足尾町名物?のようなトロッコ風ミニ列車は廃止されましたが、その走っていた頃を懐かしむ人々の強い願いによってガソリンカーとして完全復元され、現在、14番目のガソリンカーが古河足尾歴史館トロッコ館にて再現されみなさまをお迎えしております。4月~11月の毎月第一土・日に定期運行しています。

簀子橋 SUNOKO BRIGE OF THE ORIGIN OF THE ASHIO COPPER MINE MEIJI YEAR

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簀子橋が開けたのは、慶長15年・・・1610年5月に足尾郷の農民治部(じぶ)と内蔵(くら)が渋川の上流の黒岩山の中腹で銅の露頭を発見したとされる伝承からです。

二人は発見を日光座禅院座主に報告し、試掘の許可を得ます。社殿を建立し大山祇神を祀り山神とし新坑の安泰と産銅の繁栄を祈願しました。翌年、座禅院を通して時の将軍徳川家康の三代目家光の5歳の着袴の儀(七五三)に奉納したことをきっかけに幕府直轄の銅山として260年の徳川を支えていくことになりました。座主は二人の功績を祈念して黒岩山を備前楯山に改名したと云われます。備前は彼らの故郷であり楯は鉱脈を意味することからの命名だと云われます

そのルートは、渋川左岸を川沿いに進み不動滝に桟橋を架けて右岸に渡り、その上流の沢や尾根筋で露頭をとらえ開発が開始されました。不動滝手前からチャートが露出した断崖になっていて道路を開くのが困難だったため右岸川底に丸太で柱を立て、梁を乗せ、綱木で固定してその上に板張りをする岸壁の橋を造りました。これを簀子橋と呼んだことから地名にもなりました。

簀子橋は江戸時代の鉱山基地として栄え、松原には銅山奉行の陣屋が出来ました。1742年から1747年にかけて足の字が彫られた足字銭と云われる一文銭が鋳造されました。簀子橋には、神山清右衛門や福田直右衛門と言った代々受け継ぐ山師がおりましたが、明治期にはそれぞれ名主になっています。なかでも神山清右ヱ門は1742年に足字銭鋳造を祈念して狛犬を一対奉納していますが、使われた石は頑強で、足尾の石を使って彫ったとの記録があります。何回もの水害にも屈せず、270年余りの時を経ても未だに欠けることなくその存在を誇示しています。また、研究家の間でも日本全国何処にも見られない珍しい狛犬だとの評判を頂いています。

明治22年には100戸以上の鉱山集落も出来、別子銅山から来山しベッセマー転炉を考案した技師塩野門之助の家族も住んでいましたが、明治24年の大洪水で社宅の一部が流され門之助の奥さんと子供さんも犠牲になりました。明治35年の足尾台風では社宅の大半と家族78人が流され、そのうち7人が足尾小学校校庭に打ち上げられる大参事になりました。その後、雑夫長屋18棟・見張所・変圧所が再建されましたが、大正12年に出合坑閉鎖に伴い撤収されました。

山神社の御神体と狛犬は、大正9年に通洞鉱山神社に遷座されています。

因みに、不動滝は日光山開山の勝道上人が、男体山登頂するための修業の場所のひとつであり、不動明王が置かれています。その後の山岳修業の地であります。

昭和35年の第一期護岸工事を手掛けた飛島建設の現場監督が、土砂に埋もれていた不動明王を見つけ出し綺麗に洗い清めて山腹側に祀ったそうです。護岸工事は事故もなく無事に完成したそうです。現場監督は、立派な不動明王が気になって仕方なく手紙にしたためましたが、かなりの時を経て当サイトの管理者の手に入ることになりました。調査をしたところ、古河の足尾事業所鉱務課が管理をしておりました。簀子ダムの安全祈願のために、毎年、祠と不動明王を綺麗に掃除をしてお酒を上げているとのことでした。ダムが建設されてから、一度も事故もなく来られたことは、当時の現場監督のお陰だと言っても過言ではなく、これで安らかに眠っていただけると思います。

 

波之利大黒天 HASHIRIDAIKOKUTEN NARA YEAR

波之利大黒天.jpg

日光山開山の勝道上人が、足尾に入り橋のない川を渡ろうと浅瀬を探して渡ったとしてこの地を渡良瀬・川を渡良瀬川と命名したと云われています。

この渡良瀬に宝増寺が建立されたのが786年(延暦7年)に伝教大師の創立と伝えられており、後に天台宗となりました。

渡良瀬には、1716~1736年の享保年間まであり大黒橋付近から橋を渡ってお寺の門を潜ったそうです。赤沢の現在地に、1688~1703年の元禄年間に本院が建立され、渡良瀬は別院となったようです。赤沢のこの地は明治元年に僧茂海が本堂を建立し、大正10年には檀家で修復が行われています。足尾第一の檀家を持ち、火災に遭わなかったため寺宝が残っています。

大黒橋の上人が彫ったとされる波之利大黒天があり、現在は、この本堂に安置されています。

足尾の由来は、

むかしむかし、勝道上人というお坊さまがおったそうな!中禅寺湖のほとりの寺で修業をしていると、毎年粟の穂を口にくわえて現れる一匹の白ねずみがおったそうな!ある日その後をついていくと何とその山奥には村があったそうな!そこで上人はその村を「足緒」と名づけたそうな!その時の白ねずみを祀ったのが宝増寺にある波之利大黒天だとさ!

 

 

 

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