産業遺産の見どころ

旧小滝支局木橋 OLD WOODEN BRIDGE OF KODAKI OFFICE 1888

1886(明治19)年、分局を作り小滝開坑を開始しました。木橋は開坑に合わせ1887~1888年に完成し小滝局が開設されました。木橋はアーチ状下路橋です。アーチ状下路橋の木橋は橋の産業遺産のオーソリティである伊東孝先生によれば日本でこれのみではないか?との見解を得ました。貴重な木橋でしたが、1888~1895年で役目を終えたと推察されます。

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南夜半沢社宅&北夜半沢社宅MINAMIYAHANZAWA&KITAYAHANZAWA MINING COTAGES1918

夜半沢は、庚申川右岸の夜半沢両岸に造られた鉱山集落で沢の左岸を北夜半沢、右岸を南夜半沢と呼んでいました。どちらも山の傾斜地を切り取って石垣で囲った階段状の住宅集落です。南夜半沢には、平屋建て木造の小滝病院と二階建て木造の病室がありました。病院は銅山医局分院として明治22年11月に開設され、長い間、小滝地域の医療の中心的役割を果たしてきましたが、昭和28年10月、入院設備を廃止し機能も診療所に縮小、小滝撤収にともない全面廃止されました。北夜半沢は、坂道がつづく鉱山住宅地で、裾野は職員、山手は鉱員の住宅になっていました。

旧小滝選鉱所OLD KODAKI DRESSING PLAMT1889~1920.3

1886(明治19)年4月に小滝坑が開坑されると、下駄造り小屋が1軒あっただけの地域に庚申川に沿って路が開かれ、24年には馬車鉄道が敷かれ、26年1月には銅山私立小滝小学校が開校され賑わいをみせ人口が増えていきました。明治30年には鉱毒予防工事を受けて製錬所を閉鎖、大正9年にはここ選鉱所も廃止され、青葉の小滝を早い段階で取り戻すことになりました。盆踊りには、小滝通洞本山踊れ♬~やぐら備前で~中に立つ~、花の渡良瀬~♬青葉の小滝~♪月の眺めは備前楯~、応援歌には山晴れ~水澄む~われらが小滝~♪と小滝の存在は大いにあったようです。山手に選鉱所(煉瓦構築物が残っています)、選鉱所の手前は小滝事務所(昭和21年焼失)、川側に職員浴場、遺構の上階段右手に小滝座劇場(昭和21年焼失、昭和23年~29年小滝会館)など小滝の生産管理の拠点でした。明治以降も小滝は発展し、大正年間には、新長屋、畑尾、爺々が沢、北夜半沢、南夜半沢、道路社宅、2号長屋、銀山平などの社宅が増設されました。小滝にはその遺構があちこちで見られます。文象の商店には、旅館(梅の屋)、料理屋(石川屋、松の屋)、芸者屋、酒屋(伊勢屋、中川)小滝座、雑貨屋(越前屋、山善)、呉服屋(相田、平瀬)、そば屋(二ツ木)、質屋、建具屋、郵便局などがあり、花柄には、料理屋(みますや)、芸者屋(谷の屋)、雑貨屋(大津屋)、材木薪炭、呉服屋などがあったようです。小滝の人口は、1万人を超すほどになりました。

旧銀山平鉱山社宅跡OLD GINZANDAIRA MINEAER'S COTAGE1912~1954

銀山平社宅は、現国民宿舎かじか荘と銀山平キャンプ場一帯にあった銅山製材所の作業員のための社宅として建てられました。今でも石積みが残っています。銀山平は、銅山の中において銀が取れた地区で銀山坑口がありました。閉山直前に鉱業所所長の命で奈良部組が再度開削した際に、黄鉄鉱の大壁にぶち当たってしまいました。銀の採掘は少量だったためすぐに閉鎖されてしまったようですが、黄鉄鉱の壁は圧巻だったことでしょう。

旧銀山平製材所跡OLD SAWMILL FOR ASHIO COPPER MINE1905~1939

明治38年に開設した銅山の支柱のための製材所で、群馬県根利山で伐採された木材を受け入れるため約20キロの索道が開設されました。根利でも2000人規模の集落が出来、学校も開校されました。1924(大正13)年当時の設備は、帯鋸1台、竪鋸1台、丸鋸2台、切端鋸1台を備え最盛期には5万尺〆の用材、23000尺〆の支柱材、40万枚の矢板を年間に使用したといわれ、それを一手に引き受ける最新製材工場で、ここを基点に索道で全山に用材を送り込みました。1939(昭和14)年森林資源の限界からその役目を終えました。続いて索道網も廃止されました。

この製材所は当時東洋一製材所とうたわれた規模でした。日本で最初に導入された電気のこぎりはその威力を発揮したようです。

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