産業遺産の見どころ

鍰の防火壁

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赤倉から松木渓谷に向かって行くと、右側に黒い壁が目に入ります。往時の愛宕下は、最盛期には140世帯を超え、北部では本山に次ぐ人口がおりました。明治40年代になると製錬鉱夫の住居になり、14棟の長屋が作られ、大正8年には26棟となり独立製錬夫が主に居住。23号までは1戸が間口1間半、奥行き3間、他は間口2間、奥行き3間のいずれも1棟5戸。松木の大火の教訓を活かして鍰煉瓦の防火壁を設けました。通称赤長屋と呼ばれていましたが、戦後は愛宕山の眼下にあることから愛宕下と改称されました。鍰煉瓦の防火壁は、小滝の畑尾地区にも見られます。防火壁は、街中でも見られ、深沢、松原、中才では煉瓦造りの防火壁になっています。

旧松木村

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足尾砂防堰堤の北側は、3本の沢が分岐して渡良瀬川の源流となっています。地元では三川合流ダムと呼んでいました。川は西から仁田元沢、松木沢、久蔵沢と呼ばれ、それぞれに村がありました。勝道上人は、日光山開山に二度失敗をしており、庚申山でも修業をし後も高弟とともに修業に入ったと言われています。足尾五姓の齋藤、神山、星野、倉沢、細内も中禅寺から入ってきたと言われ、古代から中世にかけて足尾への主要街道であったようです。なかでも、松木村は豊かな村であったようで、星野姓が多く住んでいました。嘉永6年の石高は、仁田元32石余、930畝余、5戸 20人 馬2頭。松木96石余、2069畝余、37戸、178人、馬8頭。久蔵35石余、784畝余、13戸、58人、馬2頭。1881(明治14)年頃の松木は、畑、宅地を合わせて30町歩を超え、農産物は大麦250石、大豆50石、小豆10石、稗180石、裸麦180石、大根45000本、人参20000本、芋200石、馬鈴薯100石を生産し、他に養蚕を25戸で営み、年間で3000円の収入を得ていたそうです。明治17年に製錬所分局が操業を開始すると亜硫酸ガスの煙害が猛威を振るうようになり、追って明治20年の春の畔焼きの際に強風が吹き、あっという間に大火事になり、松木、久蔵、赤倉、間藤まで及び仁田元、高原木から製錬所分局、直利橋が焼け落ちてしました。その後も亜硫酸ガスの被害に対して古河では松木の地権者に地価の3倍の金額の示談金を支払いました。しかし、被害は追いつかず居住する限界を超えていき、明治35年廃村となってしましました。

 

本山動力所跡(国指定史跡)非公開

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有木坑口(本山坑跡)から出川を少し下がった出川左岸寄りに本山分院、次いで本山動力所がありました。本山動力は、日光発電所から送電された高圧電力を変圧して立坑や電車、コンプレッサー等の直流と光熱用に使用する交流電力に変圧して供給しました。1890(明治23)年の暮れから送電を開始した間藤発電所の電力はここで変圧され、動力用と電燈用に分けられて配線されそれぞれの目的に応じて使用されました。日光の大谷川水系の古河日光発電所完成に伴い、細尾から足尾に特別高圧線が敷かれることになります。それに従って、本山動力は、本山坑の立坑・電車・排水・製錬・選鉱の使用電力を賄う重要拠点となり、出力9,000KWAの出力を持つものになりました。変圧設備のほか修理工場も併設して、銅山の発展に貢献し、終日保守管理に当たるなど縁の下の役割を果たしたようです。コンプレッサ室は、坑内で使用する削岩機等の動力に使用する圧縮空気を作り、鉄管で坑内の使用箇所に供給しました。1911(明治45)年、通洞に設けたコンプレッサはインガーソルランドPE-2電動320馬力で、当時の日本の鉱山では、最大の出力を持つものでした。1914(大正3)年には、通洞と同型の大型機が設置され、集中供給が行われました。閉山時にはインガーソルランドPE-2が2台、同FRE-2(522馬力)が1台、FRE-2-S(515馬力)が1台の4台が設置されていました。・・・村上安正氏より

松木渓谷・足尾ダム(足尾砂防堰堤)・足尾環境学習センター

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木材や木炭などの森林資源が,精錬や坑道維持のみならず多くの住民の生活資源として多量に使用されました。また、1887(明治20)年4月に松木の大火が発生しました。それに加えて製錬所より排出された亜硫酸ガスにより禿山と化した場所であり、1902(明治35)年には松木村は廃村に追い込まれました。当初から、古河鉱業(現古河機械金属)の植林に加えて、現在は足尾に緑を育てる会等民間団体による植樹により緑化されつつあります。足尾環境学習センターでは、緑化の歴史が展示されています。足尾砂防堰堤は、1954(昭和29)年竣工の砂防ダムで、SABOは、世界の言葉として足尾から発信されています。

 

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古河橋(国重要文化財)立入禁止

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1890(明治23)年に完成した4大工事の一つで、1887(明治20)年の松木の大火で焼失した木造の直利橋に代わり、火事に強く頑強な道路用鉄橋として架けられました。ドイツはダルスブルグのハーコート社から鉄橋部材の高田商会を通じて輸入。ワーレントラスと呼ばれ、トラスの数で長さを加減するプレハブ形式です。当時ヨーロッパから開発途上国に輸出されました。古河橋は、当時のまま現存している貴重な鉄橋です。

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